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宮崎県日南市

 本市は古くから「飫肥」と呼ばれており、早くも平安時代の「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には宮崎郡飫肥郷として現れています。南北朝期には、島津荘の寄郡として飫肥北郷、飫肥南郷が興福寺一乗院の所領でした。
 中世における「飫肥」の油津港や外浦港は、南九州を代表する港として、琉球を通じて東アジア全体と交易を行っていました。この地を支配していた島津氏と、その利権を狙う伊東氏とは長年にわたって戦を繰り返してきました。戦国時代に日向国の大半を支配した伊東義祐が飫肥の攻略に失敗した後、その次男祐兵は、播州姫路(兵庫県)で秀吉に仕え、天正17年(1587)の島津氏に対する九州攻略で案内役を務めた功績により、飫肥の地を与えられました。その後、江戸時代を通じて伊東家が飫肥藩(現在の日南市と宮崎市南部)を支配しました。
 飫肥藩では、江戸時代後期から殖産産業を推進し、野中金右衛門に代表される造林事業によって飫肥杉に覆われました。飫肥杉は造船材として優れており、西日本の木造船の多くは飫肥杉が使用されました。その飫肥杉は宮崎県全域に植林されて、平成3年度から連続で宮崎県は杉丸太生産量日本一を誇っています。
 一方、港町油津は、江戸時代前期に開削された堀川運河沿いが明治時代から飫肥杉の集積場となり、昭和初期には東洋一のマグロの水揚げとともに、油津のまちは宮崎県でもっとも活気あるまちとして栄えてきました。杉村金物本店や堀川橋、油津赤レンガ館などの建物群が、当時の反映を示しています。この当時のマグロやカツオ漁の伝統は、油津港や目井津港に引き継がれ、現在でもカツオの一本釣りでは全国一を誇っています。
 市制、町制の経緯については、旧日南市は昭和25年に市制を施行し、旧北郷町は昭和34年、旧南郷町は昭和15年にそれぞれ町制を施行しました。
 そして、平成21年3月30日に旧日南市、旧北郷町、旧南郷町の3市町が合併し、「日南市」が誕生しました。
 
 現在、市のコンセプト(理念)を「創客創人」と定め、まちづくりに取り組んでいます。「創客創人」は、小藩ながら数々の困難を人々の才覚で乗り越え、明治まで約280年間存続した飫肥藩の歴史から導きだした言葉で、地域コミュニティや産業など様々な分野で、新たな価値を見出し、それを生かす仕組みを創れる人材、変革を起こして市の未来を築き、支える人材を創っていくという意味です。

 また、この根底に「シビックプライド」という考え方があります。「シビックプライド」とは、一般的な郷土愛とは少し異なり、自分自身がまちを構成する一員であるという自覚を持ち、まちをより良い場所にするするための取組みに関わろうとする、当事者意識を伴う考え方です。
 「日南市が好きだ」「日南市から離れてもいずれ戻ってきたい」といった愛着や、「日南市に住んでいる自分が好きだ」、「日南市を大切に思っている」といった誇り、また、「日南市は自分に合っている」、「日南市にいると楽しい」といった共感、この日南市に対する愛着・誇り・共感が醸成されていくことにより、市民の心にシビックプライド=ニチナンプライドが生まれ、コンセプト「創客創人」に基づくまちづくりが進んでいくと感じています。
 人口減少や少子高齢化の進展などにより、地方自治体も厳しい状況にありますが、これを克服するためにも、この動画をきっかけに、創客創人の精神を市民としっかり共有し、新たなまちづくりに取り組んでいきます。

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